生きているということ

諸事情があって、PCと2,3日離ればなれになっていました。無事に帰ってきてくれて良かったです。


時期はずれですが、お墓の掃除に行ってきました。


時期はずれなのに先客がいるようで、駐車場には岐阜ナンバーのセダンタイプの車が止まっていた。岐阜から九州まで、よく来たねえ、なんて思いながらお墓に行ってみると精悍な顔つきの若者がせっせと掃除をしていた。墓石そのものだけでなく、そのお墓の周りの通路まで水を撒いて清めているため、何度も水汲み場とお墓とを行き来する青年。両親か誰か、よほど大切な人のお墓なのだな、と思ってみていた。
自分と一緒に来ていた母が、彼と少し話をしていた。母は自分と違って社交的なのでいろいろな人と話して情報を得てくる。しかしその間、自分は一人で掃除をする羽目になったわけだが。
その日は彼の唯一の(唯一無二と言ったのかも知れない)友人の命日で、彼の車は岐阜ナンバーだが実は名古屋から墓参りに来たということであった。短い会話だったけれど、話し方に好感を持てる青年で、素晴らしい人だと思った。友人のためにわざわざ名古屋から墓参りに来たというだけでも感心するのに、こんなに熱心に掃除をしてくれて、あの世の彼の友人はさぞかし感謝しているだろう。それに、彼自身だけではなくその友人も素晴らしい人だったのだろう。
しばらくすると、彼の他にも5人の青年が集まってきて、一緒に墓参をしていた。
亡くなった後にもこんな風に友人が集まってきてくれる人とは、どんな人物だったのだろう。若くして病死なさったという。きっと病を抱えていても友人と明るく語らうことができるような、素敵な人だったに違いない。

自分が死んだ後には、誰か墓参りに来てくれるだろうか、という考えが頭をよぎった。
自分の死後のことなど気にしてもどうしようもないのだけれど、こういう光景をみるとそう考えてしまう。
たぶん、そういうことを考えられるということが、生きているということなのではないか。
死者を悼むことは生者にしかできないのだから。
自分は、人に悼んでもらえるような生き方が出来るだろうか。
それを考えることが生きていくことなのだとも思う。


結局は、何を考えていたのか自分でもよく分からなくなってしまいました…