ある、する。

 資本主義社会は「働かざるもの食うべからず」。では、障害や病気、高齢などで働けない人間は食うべからずということなのか。生きる価値がないということなのか。そもそも人間の価値は生産性があるということによって決まるものなのか。

 
 …と、いうことをテーマに含んだ卒論を書こうとしている先輩がいるみたいです。このテーマは、福祉について考えるときにはほとんどかならずぶち当たる壁なのではないかなと思う。個人的に。

 生産活動など何かをすることができるということで人を評価するという、「する価値」観。人がそこに存在するというそのこと自体に価値があるのだという、「ある価値」観。やや無理やりに分類すると前者は資本主義的、後者は社会主義的…なのかなぁ。社会主義だって生産はしなきゃいけないよね。かえんにはよく分かりません。その先輩はたぶん、「『ある価値』観が福祉現場(施設だとか、生活相談の窓口業務従事者とか)に広がればよいのにな〜なんで広がらないのかな〜」というような話をしていたような気がする。(あくまで気がする、と言う程度で実は違うことを言ってたかも。卒論の中間発表を真面目に聞いてなくてごめんなさい。)ただ、「する価値」「ある価値」という言葉は印象的でした。

 仕事ができるかどうか、成績が優秀かどうかという個人の一面だけの評価が個人そのものの評価になるのはおかしいのではないか。もっとその人の個性を尊重すべきではないのか。…最近はこのような風潮がありますよね?(←知ったかぶり発言)こういう風潮は「する価値」から「ある価値」への転換の原動力にならないかなぁ。
 でも、これはどちらかというと「勉強出来なくったっていいじゃないか!個人を大切にせよ!」→「基礎学力低下。自己チュー人間の増加」になりそうだとも思う。個人的に。もし仮に「ある価値」という言葉が浸透しても、わがままの根拠になっちゃうと社会的弱者はますます生きにくくなるよなぁ。うーん…どうしたらいいのやら。


 何を言おうとしてこの文章を書き始めたのか、もはや自分でも分かりません。単に「かえんにも『ある価値』というものが付加されたらいいなぁ」と思ってただけなのだけど、どうしてこんな妙な方向に行ってしまったのか。とりあえず、先輩にはがんばってもらいたいと思います。